エゼキエル33:11~
わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって,悪者がその態度を悔い改めて
生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。
イスラエルの家よ。なぜあなたがたは死のうとするのか。
~正しい人でも,罪を犯すとき,彼は自分の正しさによって生きることはできない。
その悪者が質物を返し,かすめた物を償い,不正をせず,
いのちのおきてに従って歩むなら,彼は必ずいき,死ぬことはない。
物心のつく頃から,自分を責める声に苦しんでいたように思う。
クリスチャンとして何年もいるのに,ふと主から離れていると,何日も何ヶ月も何年も苦しむ。
そして,大切な人を傷つけてしまう。
確かにわたしは責められるべきことをしでかした。
律法において,わたしは,最悪な罪人であり,どうしようもない。
今ある苦しみは,当然うけおってあまりあるべきひどい罪を侵し続けてきたのだから。
しかし,ひざを抱えうちひしがれて動けなくなるほどのこの苦しみは,もはや主の御旨でないことを知った時,
主の御声だけを聞くものになろうと改める。
私は,主の十字架の救いに心から感謝し受入れる。
主のめぐみをゆるしを,心から受入れ,そして信頼する。
たとえ,今の状況がどんなであろうと,そんなことはどうだっていい。
主がともにいてくださることを心から信頼し,感謝していくことを選び続ける。
この聖書箇所にある,いのちのおきてとは何だろう。
それは,私自身は,私のものではない,管理するのは私であっても,
私のすべては,主のものなのだ・・
主が質物を返せとおっしゃる,主がかすめた物を償えとおっしゃる,
そして,私自身が,主の御旨のままにお用いくださっていただけるような
柔らかい良い管であること,これが,いのちのおきてに従うことなんじゃないか・・
そこに,自分の思いで自分の都合で怒ったり,不平に感じたりする必要がありえない。
自由に主に用いていただくことこそ,いのちのおきて。