2011年1月18日火曜日

弱さの中で

身体の痛みで動けずに、弱かった時には、

実はその弱さの中で、主が強く働いてくださっていたこと、それがよくわかりました。

高額な乗り物に乗り、好きな洋服を買い、おいしい食事をいただき、

心地よい時間を過ごし味わい楽しみ・・いつしか「わたし」が強くなってしまったのです。

そこにはおむ、キリストの力はほとんどなかったのでしょう。

わたしは、今またこうなって思ったのです。

わたしは、弱いです。

何もかも不器用で何一つうまくいかずに、頭を抱えて動けなくなってしまう弱い者です。

隣人をおろか、息子さえも愛することができなくなったり

ねたんだり、恨んだり、怒ったり、本当にみじめな者です。

神さまの助けなしには、一日たりとも起きていられない弱い弱い者です。

が、そこに、神様の働いてくださることをお迎えするならば、きっと起きていられるんです。

それは、わたしは、すべてキリストの者です。と宣言することによってです。

わたしは、すべてキリストの者です。

わたしは、すべて神様の愛の器です。

この足も、手も、目も、声も、賜物も、思考も、

そして、隣人も、すべてすべてキリストのものであり、神様の愛の器に貸し与えられている、大切な道具です。

わたしを完全に明け渡し、神様に自由に用いてもらうべき道具です。

そこにどうして、周りの人を愛せないと困惑するでしょう。

恐れや焦りに惑わされ、どうして私が何とかしなければと、自分で強くなろうとするのでしょう。

わたしは弱い。わたしはからっぽであり、そこに神様が働いてくださることで

まわりの人も神様を見、本当の平安を知るのではないでしょうか。

栄誉は誰のために サムエルⅠ31:4

サウル王は敵に追われ、「もはやこれまで」という状況にいました。この時サウル王は、主に助けを求めることもなく、自分の力で自分の栄誉の死を考えていました。「あの割礼を受けていない者どもがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶり者にするといけないから。」と、神様を知らない者に殺されることを拒否し、自殺に至りました。最後の最後でサウル王は、神様を知っている者として死のうとしました。この死は名誉な死に方でしょうか。

イエス様はどの様な死を向かえたのでしょうか。イエス様は、神様の前にへりくだり、天の父なる神様のみこころを優先しました。自分の思いではなく、神様にゆだねました。また、良い牧者として、御自分の民である私たちのためにいのちをお捨てになりました。イエス様は、自分が栄光を受けるためではなく、天の父である神様が栄光を受け、私たちが命を得るために死なれました。だから、イエス様は復活され、栄光を受けたのです。

イエス様は私たちにいのちを与えるために生き、いのちを捨てました。サウル王は自分のプライドのために生き、いのちを捨てました。私たちは何のために生き、何のために死ぬことができるでしょうか。

S教会デボガイドより