身体の痛みで動けずに、弱かった時には、
実はその弱さの中で、主が強く働いてくださっていたこと、それがよくわかりました。
高額な乗り物に乗り、好きな洋服を買い、おいしい食事をいただき、
心地よい時間を過ごし味わい楽しみ・・いつしか「わたし」が強くなってしまったのです。
そこにはおむ、キリストの力はほとんどなかったのでしょう。
わたしは、今またこうなって思ったのです。
わたしは、弱いです。
何もかも不器用で何一つうまくいかずに、頭を抱えて動けなくなってしまう弱い者です。
隣人をおろか、息子さえも愛することができなくなったり
ねたんだり、恨んだり、怒ったり、本当にみじめな者です。
神さまの助けなしには、一日たりとも起きていられない弱い弱い者です。
が、そこに、神様の働いてくださることをお迎えするならば、きっと起きていられるんです。
それは、わたしは、すべてキリストの者です。と宣言することによってです。
わたしは、すべてキリストの者です。
わたしは、すべて神様の愛の器です。
この足も、手も、目も、声も、賜物も、思考も、
そして、隣人も、すべてすべてキリストのものであり、神様の愛の器に貸し与えられている、大切な道具です。
わたしを完全に明け渡し、神様に自由に用いてもらうべき道具です。
そこにどうして、周りの人を愛せないと困惑するでしょう。
恐れや焦りに惑わされ、どうして私が何とかしなければと、自分で強くなろうとするのでしょう。
わたしは弱い。わたしはからっぽであり、そこに神様が働いてくださることで
まわりの人も神様を見、本当の平安を知るのではないでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿