しっとやねたみ、憎しみや怒りに支配されるのではなく、
主の御心を祈る者でありますように。
あなたが素晴らしい平安と解放をくださることを知っていますから、
誰のためにも祈ることのできる、
素直できれいな心でいさせてください。
人間は、とりあえず何かとつながっていたい存在なのだと聞いたことがある。
友達なり、家族なり、コミュニティがあることは、人に安定をもたらすだろう。
だけど生身の人間どうしだから永遠につながっていられるわけじゃない。
だから、神様は、私のところにきなさいっておっしゃって下さるわけ。
ほかでもない、私を礼拝しなさいと。
神様の前に生きているじぶんが、本当の自分なんだ。
賛美をしている時も、
勉強している時も、
掃除をしている時も、
電話で誰かと話している時も、
買い物をしている時も、
神様の前にいる自分が、本当の自分なんだ。
間違いに気づいて素直に謝ったら、赦してくださる憐れみ深い偉大な方の前に、
誠実に生きる魂の自由を、私たちは今日も与えられている。
だから、
大きな声を出す必要もないし、
不満に思う必要もない。
本当の自分でいるわけだから、いちばん居心地がいい。
そこにいてくれるだけが、何とありがたいことか。
ふだん、不満に感じてしまうような態度であっても、
たとえば、なんとなく不機嫌でつまらない様子、
陰気くさいつまらない様子、
きちんとしてなくて、だらしのないようすだとか、
もっとこうすればいいのにな!とか
そんな、ついつまんなに気持ちになってしまう様子であっても、
ただ居てくれるってこと自体が、なんて・・・なんて・・・ありがたいことなんだろう!!
涙が出るほど、大好きだよーーーーーーーーーーーーー!!!
って、私はただ、ただ、伝えたい。
伝えるだけのことなんだなと改めて思った次第であります。
ああなればいい、
こうなればいい、
こうするべき、
ああなるべき、
この自分中心な感覚が、どれだけ相手を傷つけてしまうか。
そのまんまでいてほしいな。
そのまんまでいてほしいな。
毎日が、なんて、なんて、平和で素敵なことだろう!!
3㎡ほどの畑を借りました。
とりあえず、男爵いもを育てようと思います。
①天地返し(シャベルで、一面、掘り返す→土がふかふかに)
②うねを作り、谷の部分に、3種の肥料をまく(たい肥、化学肥料、鶏ふん)
③たねいもを適当な大きさに切り、均等に置いていく
④置いたたね芋を、足でふみこみ、最後に土をふわっとかけておく
初めてだったので、土の保温や虫除けとなるマルチは、省いてみました。
できるだけまめに、雑草を抜きに行こうと思います。
頼もしい父↓10日ほどで芽が出るそうです。
私達は,神様のみことばを,主の救いを,幼子のように信じることを求められています。
幼子は,お父さんお母さんの言うことを,素直に「そうなんだ!」と受入れてくれます。
うちの息子は,母の教えを本当によく信頼したものです。
それはひたむきに,お母さんのあとを一生懸命ついてきて,母は本当に愛おしく思ったものです。
私たちクリスチャンも,神様のおっしゃることに,「そうなんだ!」と信頼し喜ぶことが求められています。
ローマ8
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださる
このみことばも,心から信頼し,大喜びすることが,毎日毎日,求められています。
旧約を知り,神様のおきてを知る。
新約を知り,神様のめぐみを思う。
スポルジョンの6月の夕説教を読みながら,
イエス様が,この私を,敵の火矢から,
そのすべてをなげうって守ってくださっているのがまざまざと脳裏に浮かんだ。
「十字架の贖い,それだけで,もう充分だと思いました。」ソノさんの言葉,
毎日毎日,子供の頃から聞こえてくる,私を責める声・・
律法であれば私は,確かに責められてなぶられて痛めつけられるべき存在。
イエスさまが,この私のために。
誰も私を責めることはできない。
誰も私をとがめることはできない。
圧倒的な勝利者であられる主が,私をよしとしてくださったのだから。
神様だけのためにこの心を,この身体を使っていくべき理由がここにある。
平安でいられる。
幸福でいられる。
主の前にふさわしい者として大手をふって歩ける。
このことを,神様のために伝えていきたい。
エゼキエル33:11~
わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって,悪者がその態度を悔い改めて
生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。
イスラエルの家よ。なぜあなたがたは死のうとするのか。
~正しい人でも,罪を犯すとき,彼は自分の正しさによって生きることはできない。
その悪者が質物を返し,かすめた物を償い,不正をせず,
いのちのおきてに従って歩むなら,彼は必ずいき,死ぬことはない。
物心のつく頃から,自分を責める声に苦しんでいたように思う。
クリスチャンとして何年もいるのに,ふと主から離れていると,何日も何ヶ月も何年も苦しむ。
そして,大切な人を傷つけてしまう。
確かにわたしは責められるべきことをしでかした。
律法において,わたしは,最悪な罪人であり,どうしようもない。
今ある苦しみは,当然うけおってあまりあるべきひどい罪を侵し続けてきたのだから。
しかし,ひざを抱えうちひしがれて動けなくなるほどのこの苦しみは,もはや主の御旨でないことを知った時,
主の御声だけを聞くものになろうと改める。
私は,主の十字架の救いに心から感謝し受入れる。
主のめぐみをゆるしを,心から受入れ,そして信頼する。
たとえ,今の状況がどんなであろうと,そんなことはどうだっていい。
主がともにいてくださることを心から信頼し,感謝していくことを選び続ける。
この聖書箇所にある,いのちのおきてとは何だろう。
それは,私自身は,私のものではない,管理するのは私であっても,
私のすべては,主のものなのだ・・
主が質物を返せとおっしゃる,主がかすめた物を償えとおっしゃる,
そして,私自身が,主の御旨のままにお用いくださっていただけるような
柔らかい良い管であること,これが,いのちのおきてに従うことなんじゃないか・・
そこに,自分の思いで自分の都合で怒ったり,不平に感じたりする必要がありえない。
自由に主に用いていただくことこそ,いのちのおきて。
わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、
そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。
たとい山々が移り、丘が動いても、
わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、
わたしの平和の契約は動かない。」と
あなたをあわれむ主は仰せられる。
私たちの闘いは、罪との闘い。
罪へ誘う悪魔との闘い。
みことばに立つ闘い。
・・・マナの11月号を改めて読み返して力が湧いた。
そして、主の御旨のままに自分を生かす。
このことで、私は今日、勝利した思いでいます。
身体の痛みで動けずに、弱かった時には、
実はその弱さの中で、主が強く働いてくださっていたこと、それがよくわかりました。
高額な乗り物に乗り、好きな洋服を買い、おいしい食事をいただき、
心地よい時間を過ごし味わい楽しみ・・いつしか「わたし」が強くなってしまったのです。
そこにはおむ、キリストの力はほとんどなかったのでしょう。
わたしは、今またこうなって思ったのです。
わたしは、弱いです。
何もかも不器用で何一つうまくいかずに、頭を抱えて動けなくなってしまう弱い者です。
隣人をおろか、息子さえも愛することができなくなったり
ねたんだり、恨んだり、怒ったり、本当にみじめな者です。
神さまの助けなしには、一日たりとも起きていられない弱い弱い者です。
が、そこに、神様の働いてくださることをお迎えするならば、きっと起きていられるんです。
それは、わたしは、すべてキリストの者です。と宣言することによってです。
わたしは、すべてキリストの者です。
わたしは、すべて神様の愛の器です。
この足も、手も、目も、声も、賜物も、思考も、
そして、隣人も、すべてすべてキリストのものであり、神様の愛の器に貸し与えられている、大切な道具です。
わたしを完全に明け渡し、神様に自由に用いてもらうべき道具です。
そこにどうして、周りの人を愛せないと困惑するでしょう。
恐れや焦りに惑わされ、どうして私が何とかしなければと、自分で強くなろうとするのでしょう。
わたしは弱い。わたしはからっぽであり、そこに神様が働いてくださることで
まわりの人も神様を見、本当の平安を知るのではないでしょうか。
サウル王は敵に追われ、「もはやこれまで」という状況にいました。この時サウル王は、主に助けを求めることもなく、自分の力で自分の栄誉の死を考えていました。「あの割礼を受けていない者どもがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶり者にするといけないから。」と、神様を知らない者に殺されることを拒否し、自殺に至りました。最後の最後でサウル王は、神様を知っている者として死のうとしました。この死は名誉な死に方でしょうか。
イエス様はどの様な死を向かえたのでしょうか。イエス様は、神様の前にへりくだり、天の父なる神様のみこころを優先しました。自分の思いではなく、神様にゆだねました。また、良い牧者として、御自分の民である私たちのためにいのちをお捨てになりました。イエス様は、自分が栄光を受けるためではなく、天の父である神様が栄光を受け、私たちが命を得るために死なれました。だから、イエス様は復活され、栄光を受けたのです。
イエス様は私たちにいのちを与えるために生き、いのちを捨てました。サウル王は自分のプライドのために生き、いのちを捨てました。私たちは何のために生き、何のために死ぬことができるでしょうか。
S教会デボガイドより
詩編38
テキストから、罪の意識、というサブタイトルで、丁寧に読んでみました。人は、不安や恐れといった苦しい心の状態にある時、どのように取り除くでしょうか。ダビデは、この38編の冒頭では、神からの懲らしめと受け取めていました。ところが、愚かさの結果である罪による苦しみが、自力では回復の望みを持てないことを告白します(9節)。そして、一切を神様に隠さず申し上げ、神様からの答えを期待するようになります。この編の中盤以降では、どうにかして神様からの応答を得ようとする信仰が見られます(15節)。最終的には、苦しみは、自分の罪のためであり、それを神様に告白し、神様に許していただく以外、救いはないことを明らかにします。
Ⅰヨハネ1:5~
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。(中略)もし、神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩いているなら、私たちは、互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
(詩編32:10) 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
(箴言1:33) しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。
人は、何かしらを、礼拝する。お金・・学歴・・世の中からの評価・・健康・・若さ・・人並みの生活・・仕事・・容姿・・人間関係・・・しかし、それらをあがめている限り、真の平安はない。いずれ衰え、いくらでも失う可能性のあるものに対して、一時的に抱え込んで大丈夫だと思っていても、背中合わせに、失ってしまったらという恐れを抱えこんでしまう。全知全能なる聖書の神様は、反抗する私たちに、正しい安全な道へ来なさいと、今日も手をさしのべてくださる。
(黙示録3:19)
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
(へブル12:5~8)
「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです。
見捨てられてないからこそ、厳しくこらしめられる。感謝と希望をいつも覚えていられますように。
申命記33:12~
「主に愛されている者。
彼は安らかに、主のそばに住まい、
主はいつまでも彼をかばう。
彼が主の肩の間に住むかのように。」
主に愛されている・・これ以上の幸せはないと思います。では、どうしたら、主に愛されるのだろう?ひとつの答えとして・・・
詩編19:13
~そうすれば、私は全き者となり、
大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
私の口のことばと、私の心の思いとが、
御前に受け入れられますように。
この「そうすれば」の前は・・
~どうか、隠れている罪をお赦しください。
あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。
それらが私を支配しませんように。
「傲慢」「高慢」な心は、神様がとても嫌がられるもの。パリサイ人の、高ぶった祈りを退けられ、自分の弱さ、みじめさ、罪深さを認め、寄りすがる取税人の祈りを義とお認めになりました。(ルカ18:10~
マタイ23:25 忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放銃でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。
私の口のことばと私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。(詩編19:14)
創世記 39章7節(創世記40章)
順調なとき(と言っても奴隷ではありましたが・・・)に、罠が仕掛けられました。それが今日の箇所です。ポティファルの妻が迫ってきたのです。
私たちは、順調なときも、そうでないときもいつも心を守る必要があります。たとえ自分の失敗ではなく、誰かのミスや誰かからの攻撃であったとしても、怒ったり、誘惑に負けたりせずに自分の心を守りましょう。そして神様に目を向け、神様と共に歩みましょう。「何でですか?」と神様に叫びたいときも、心を変え、「こんな状況でも、神様が共にいてくださることを感謝します。」と言える者になりたいです。(デボーションガイドより)