わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、
そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。
たとい山々が移り、丘が動いても、
わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、
わたしの平和の契約は動かない。」と
あなたをあわれむ主は仰せられる。
わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、
そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。
たとい山々が移り、丘が動いても、
わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、
わたしの平和の契約は動かない。」と
あなたをあわれむ主は仰せられる。
私たちの闘いは、罪との闘い。
罪へ誘う悪魔との闘い。
みことばに立つ闘い。
・・・マナの11月号を改めて読み返して力が湧いた。
そして、主の御旨のままに自分を生かす。
このことで、私は今日、勝利した思いでいます。
身体の痛みで動けずに、弱かった時には、
実はその弱さの中で、主が強く働いてくださっていたこと、それがよくわかりました。
高額な乗り物に乗り、好きな洋服を買い、おいしい食事をいただき、
心地よい時間を過ごし味わい楽しみ・・いつしか「わたし」が強くなってしまったのです。
そこにはおむ、キリストの力はほとんどなかったのでしょう。
わたしは、今またこうなって思ったのです。
わたしは、弱いです。
何もかも不器用で何一つうまくいかずに、頭を抱えて動けなくなってしまう弱い者です。
隣人をおろか、息子さえも愛することができなくなったり
ねたんだり、恨んだり、怒ったり、本当にみじめな者です。
神さまの助けなしには、一日たりとも起きていられない弱い弱い者です。
が、そこに、神様の働いてくださることをお迎えするならば、きっと起きていられるんです。
それは、わたしは、すべてキリストの者です。と宣言することによってです。
わたしは、すべてキリストの者です。
わたしは、すべて神様の愛の器です。
この足も、手も、目も、声も、賜物も、思考も、
そして、隣人も、すべてすべてキリストのものであり、神様の愛の器に貸し与えられている、大切な道具です。
わたしを完全に明け渡し、神様に自由に用いてもらうべき道具です。
そこにどうして、周りの人を愛せないと困惑するでしょう。
恐れや焦りに惑わされ、どうして私が何とかしなければと、自分で強くなろうとするのでしょう。
わたしは弱い。わたしはからっぽであり、そこに神様が働いてくださることで
まわりの人も神様を見、本当の平安を知るのではないでしょうか。
サウル王は敵に追われ、「もはやこれまで」という状況にいました。この時サウル王は、主に助けを求めることもなく、自分の力で自分の栄誉の死を考えていました。「あの割礼を受けていない者どもがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶり者にするといけないから。」と、神様を知らない者に殺されることを拒否し、自殺に至りました。最後の最後でサウル王は、神様を知っている者として死のうとしました。この死は名誉な死に方でしょうか。
イエス様はどの様な死を向かえたのでしょうか。イエス様は、神様の前にへりくだり、天の父なる神様のみこころを優先しました。自分の思いではなく、神様にゆだねました。また、良い牧者として、御自分の民である私たちのためにいのちをお捨てになりました。イエス様は、自分が栄光を受けるためではなく、天の父である神様が栄光を受け、私たちが命を得るために死なれました。だから、イエス様は復活され、栄光を受けたのです。
イエス様は私たちにいのちを与えるために生き、いのちを捨てました。サウル王は自分のプライドのために生き、いのちを捨てました。私たちは何のために生き、何のために死ぬことができるでしょうか。
S教会デボガイドより
詩編38
テキストから、罪の意識、というサブタイトルで、丁寧に読んでみました。人は、不安や恐れといった苦しい心の状態にある時、どのように取り除くでしょうか。ダビデは、この38編の冒頭では、神からの懲らしめと受け取めていました。ところが、愚かさの結果である罪による苦しみが、自力では回復の望みを持てないことを告白します(9節)。そして、一切を神様に隠さず申し上げ、神様からの答えを期待するようになります。この編の中盤以降では、どうにかして神様からの応答を得ようとする信仰が見られます(15節)。最終的には、苦しみは、自分の罪のためであり、それを神様に告白し、神様に許していただく以外、救いはないことを明らかにします。
Ⅰヨハネ1:5~
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。(中略)もし、神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩いているなら、私たちは、互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
(詩編32:10) 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
(箴言1:33) しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。
人は、何かしらを、礼拝する。お金・・学歴・・世の中からの評価・・健康・・若さ・・人並みの生活・・仕事・・容姿・・人間関係・・・しかし、それらをあがめている限り、真の平安はない。いずれ衰え、いくらでも失う可能性のあるものに対して、一時的に抱え込んで大丈夫だと思っていても、背中合わせに、失ってしまったらという恐れを抱えこんでしまう。全知全能なる聖書の神様は、反抗する私たちに、正しい安全な道へ来なさいと、今日も手をさしのべてくださる。
(黙示録3:19)
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
(へブル12:5~8)
「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです。
見捨てられてないからこそ、厳しくこらしめられる。感謝と希望をいつも覚えていられますように。
申命記33:12~
「主に愛されている者。
彼は安らかに、主のそばに住まい、
主はいつまでも彼をかばう。
彼が主の肩の間に住むかのように。」
主に愛されている・・これ以上の幸せはないと思います。では、どうしたら、主に愛されるのだろう?ひとつの答えとして・・・
詩編19:13
~そうすれば、私は全き者となり、
大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
私の口のことばと、私の心の思いとが、
御前に受け入れられますように。
この「そうすれば」の前は・・
~どうか、隠れている罪をお赦しください。
あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。
それらが私を支配しませんように。
「傲慢」「高慢」な心は、神様がとても嫌がられるもの。パリサイ人の、高ぶった祈りを退けられ、自分の弱さ、みじめさ、罪深さを認め、寄りすがる取税人の祈りを義とお認めになりました。(ルカ18:10~
マタイ23:25 忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放銃でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。
私の口のことばと私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。(詩編19:14)
創世記 39章7節(創世記40章)
順調なとき(と言っても奴隷ではありましたが・・・)に、罠が仕掛けられました。それが今日の箇所です。ポティファルの妻が迫ってきたのです。
私たちは、順調なときも、そうでないときもいつも心を守る必要があります。たとえ自分の失敗ではなく、誰かのミスや誰かからの攻撃であったとしても、怒ったり、誘惑に負けたりせずに自分の心を守りましょう。そして神様に目を向け、神様と共に歩みましょう。「何でですか?」と神様に叫びたいときも、心を変え、「こんな状況でも、神様が共にいてくださることを感謝します。」と言える者になりたいです。(デボーションガイドより)